デジタル社会のつながり

画面がめんの向むこうには五万人の他人たにんがいるのに、美咲みさきはこれほどの孤独こどくをかつて感かんじたことがなかった。

彼女は化粧品けしょうひんメーカーの公式こうしきアカウントを担当たんとうするソーシャルメディア運用うんよう担当者たんとうしゃである。毎朝まいあさ、完璧かんぺきに加工かこうされた写真しゃしんを投稿とうこうし、流行はやりの言葉ことばを添そえ、何千なんぜんもの「いいね」を集あつめる。その数字すうじこそが、彼女の評価ひょうかそのものだった。

数字が伸のびている限かぎり、誰だれも文句もんくを言いわない。上司じょうしも満足まんぞくげにうなずく。周囲しゅういから見みれば、美咲は成功せいこうしている人間にんげんに違ちがいなかった。少すくなくとも、表面上ひょうめんじょうは。

しかし夜よる、誰だれもいない部屋へやでスマートフォンを置おいた瞬間しゅんかん、妙みょうな空むなしさが押おし寄よせてくる。画面がめんの中なかの華はなやかな私わたしと、実際じっさいの私わたしとの間あいだには、埋うめられない溝みぞがあった。

本当ほんとうの私わたしを見みせたところで、誰だれも興味きょうみなど持もってくれないだろう。そう思おもい込こんでいた。彼女かのじょにとってフォロワーとは、つながりというよりも、消費しょうひされる視線しせんに過すぎなかった。

ある休日きゅうじつ、投稿とうこうの材料ざいりょうを探さがそうとカフェに入はいった。隣となりの席せきでは、年配ねんぱいの女性じょせいが古ふるびた手帳てちょうに何なにかを書かき込こんでいる。その横顔よこがおが、なぜか彼女かのじょの胸むねを締しめ付つけた。

ふと、美咲は自分じぶんのアカウントを開ひらいた。そして加工かこうも何なにもしていない、飲のみかけの珈琲コーヒーの写真しゃしんを載のせ、こう書かいた。「正直しょうじきに言いうと、私わたしは今いま、とても寂さびしいです」と。

投稿とうこうした途端とたん、後悔こうかいが込こみ上あげてきた。消けそうかと何度なんども指ゆびが迷まよった。弱よわみを見みせれば、積つみ上あげてきたものが崩くずれてしまうかもしれない。

ところが、予想よそうに反はんして、通知つうちが次々つぎつぎと届とどき始はじめた。批判ひはんではなかった。「私わたしも同おなじです」「勇気ゆうきをもらいました」――そうした言葉ことばが、画面がめんを埋うめ尽つくしていく。

彼女かのじょが完璧かんぺきさを演えんじ続つづけていた間あいだ、見みえていなかったものがあった。画面がめんの向むこうにいたのは、消費しょうひする視線しせんではなく、同おなじように孤独こどくを抱かかえ、誰だれかとつながりたいと願ねがう生身なまみの人々ひとびとだったのだ。

その夜よる、美咲は久ひさしぶりに、数字すうじのためではなく自分じぶんのために文章ぶんしょうを書かいた。飾かざらない言葉ことばを綴つづるたびに、心こころの重おもみが、少すこしずつ軽かるくなっていくのを感かんじた。

本物ほんもののつながりとは、完璧かんぺきな姿すがたを見みせ合あうことではない。弱よわさも含ふくめたありのままの自分じぶんを差さし出だして初はじめて(# "only after; not until — 〜て初めて pattern")、人ひとは本当ほんとうに他人たにんと出会であえるのかもしれない。彼女かのじょはようやく、そのことに気付きづいたのだった。