哲学者の問い
夜明けとともに目覚める束の間の澄んだ意識こそが、老いた哲学者に残された唯一の領分であった。
森田教授は、長年にわたって大学で認識論を講じてきた。「私とは何者か」という問いを、半生をかけて追究してきたのである。だがその問いが、いまや全く別の切実さをもって彼に迫っていた。
半年ほど前、彼は初期の認知症と診断された。記憶は潮が引くように、少しずつ、しかし確実に彼から去っていく。午後になれば思考は霧に包まれ、馴染みの言葉すら彼の手をすり抜けていく。
それでも明け方だけは違った。窓の外がまだ薄暗いうちに机に向かい、彼は万年筆を握る。失われゆく自己について、書き留めておくためににほかならない.
「記憶を失うとは、果たして自己を失うことなのだろうか」と彼は綴る。過去の出来事を束ねたものが私であるならば、その束がほどけてゆく今、私は徐々に消滅しつつあるのかとでもいうのだろうか.
彼は万年筆を置き、窓辺に立つ。東の空が淡く染まりはじめていた。妻を早くに亡くしてからというもの、この時刻の孤独には慣れたつもりでいた。だが今朝の孤独は、これまでとは質を異にしていた。
やがて失うであろう自分を、今の自分が見送っているような、奇妙な感覚であった。別れの相手が、ほかならぬ自分自身であるがゆえに、その悲しみには行き場がなかった。
机に戻ると、彼は古いノートを開いた。若き日の彼が書いた文字が並んでいる。懐かしさはあるが、それを書いた当時の心境を、彼はもはや正確には思い出せなかった。
果たして、この文字を書いた男と今の自分は、同一の人物と言えるのだろうか。記憶という絆が薄れた今、彼と彼を繋ぐものは、いったい何なのか。
そのとき、彼はふと気づいた。忘れてゆくことそのものを恐れ、書き残そうとする、この切実な意志こそが、紛れもなく自分という存在の証ではないか、と。
記憶は失われても、失うまいとする心の働きは今ここに厳然とある。自己とは過去の蓄積のみではなく、今この瞬間に何かを求め、抗い、祈る、その生きた働きのうちに宿るのではないか。
彼は再び万年筆を取り、震える手で一行を書き加えた。「私は忘れる。されど、忘れまいとする私は、忘れることのできぬ私である」と。
窓の外では、朝日が町を照らしはじめていた。やがて訪れる午後の霧を、彼はもう恐れていなかった。失われてなお残るものがあると、この澄んだ朝のひとときが、たしかに彼に教えてくれたのだから。