喪失と再生の物語

ねんという歳月さいげつが、彼女かのじょ指先ゆびさきから陶土とうど感触かんしょくうばっていた。

益子ましこ工房こうぼうは、おっとってからというもの、ときまったままほこりをかぶっていた。たなにはかれ最後さいごいた茶碗ちゃわんが、釉薬ゆうやくあおたたえたままならんでいる。それらにれることは、傷口きずぐちにそっとてる行為こういにほかならなかった

轆轤ろくろまえすわると、ひざうえいた両手りょうてかすかにふるえた。かつてこのは、何千なんぜんといううつわしてきた。だがいまや、つちをどうあつかっていたのかすらおもせない。喪失そうしつとは、ただひとうしなうことではなく、自分じぶん何者なにものであったかをもわすれさせてしまうものなのかもしれない

彼女かのじょ陶土とうどかたまり轆轤ろくろ中央ちゅうおうえた。てのひらつたわるつめたさと湿しめは、まぎれもなく記憶きおくなかにあるものだった。あしはずみをつけると、轆轤ろくろひくうなりをげてまわはじめた。その回転かいてんゆだねた瞬間しゅんかんせきったようになみだあふれた。

きながら、それでもつちもとつづけた。親指おやゆび中心ちゅうしんしずめ、かべすこしずつげていく。不思議ふしぎなことに、あたまわすれていたうごきを、おぼえていた。身体からだきざまれた記憶きおくというものは、かなしみごときにられはしないのだと、彼女かのじょさとった。

おっとはよくっていた。「うつわというのは、からっぽの部分ぶぶんにこそ意味いみがあるんだ」と。たされたうつわには、もはやなにそそぐことができない。空虚くうきょであることこそがうつわうつわたらしめている。かれうしなってからになった自分じぶんむねもまた、なにかをれる余地よちとなり得るのかもしれなかった。

かたむき、まどからひかりあかねいろまるころ轆轤ろくろうえにはひとつのわん姿すがたあらわしていた。ゆがんでいて、けっして上手じょうずとはえない。それでも、それはまぎれもなく彼女かのじょんだ、ねんぶりの作品さくひんだった。

彼女かのじょはそのわん両手りょうてつつんだ。ひとかえらない。けれど、かなしみはつちのようになおし、あたらたなかたちあたえることができる。うしなわれたものをなげばかりでなく、その喪失そうしつかてとしてなおすこと——それをひと再生さいせいぶのだろう。

かまれるを、彼女かのじょはもうおそれてはいなかった。ほのおつちかため、もろかたまりながのこうつわへとえる。かなしみというもまた、こわれそうだった彼女かのじょこころを、しずかにきたなおしていたのだった