戦後の記憶
撮影の機材に囲まれた薄暗い座敷で、齢八十八になる老婦人は、膝の上で皺だらけの手をゆっくりと重ねた。
「戦後の記憶を、というご依頼でしたね」と、彼女は穏やかに切り出した。若い制作スタッフたちが、カメラの赤いランプを灯したのを確かめてから、彼女はふと遠い目をした。
「大阪が焼けた晩のことは、忘れようにも忘れられるものではありません。空が真昼のように明るかった。焼夷弾というものは、雨のように降ってくるのですよ。逃げる人々の影が、炎を背にして黒く揺れていた光景は、今も瞼の裏に焼き付いております」
一同は息を呑んだ。老婦人の語り口には、悲劇を誇張しようとする気配が微塵もなかった。ただ述べる、その淡々とした響きこそが、聞く者の胸を締め付けるのだった。
「母は、私の手を掴んで川まで走りました。幾つもの遺体を跨いで。あの夜、私が生き延びたのは、ひとえに母の執念にほかなりません」
しばし沈黙が流れた後、彼女の頬に微かな笑みが浮かんだ。
「けれど、暗い話ばかりではございません。焼け跡に立った私どもを救ってくれたのは、ほかでもない一本の薩摩芋でした」
制作スタッフの一人が、思わず身を乗り出した。
「闇市でね、芋を焼く匂いが漂ってくると、飢えた腹が切ないほど鳴ったものです。一切れの甘みが、これほどまでに人を幸せにするのかと、幼いながらに感じ入りました。飢餓という極限を知って初めて、人は一粒の米の尊さを悟るのかもしれません」
カメラの向こうで、誰かが小さく鼻をすすった。老婦人は構わず続けた。
「今の若い方々には、到底想像も及ばぬ暮らしでしょう。屋根もなければ明日の糧もない。それでもなお、人は笑っていたのですよ。瓦礫の隙間から芽を出した草を見つけては、明日はきっと良くなると信じて疑わなかった」
彼女は言葉を切り、障子越しに差し込む午後の陽を見つめた。
「希望とは、恵まれた境遇にある者が抱く贅沢ではないと、私は思っております。むしろ、何一つ持たぬ者の手にこそ、それは宿る。失うものが何もないからこそ、人は前を向けたのでしょう。戦争が私から奪ったものは数え切れません。されど、あの焼け跡で芽生えた頑なな望みだけは、終生私を支え続けてくれました」
語り終えた老婦人は、再び膝の上で手を組み、静かに頭を垂れた。撮影が終わってもなお、座敷には言い知れぬ余韻が漂っていた。彼女の語った記憶は、もはや一個人のものではなく、時代そのものの証言として、静かに、しかし確かに、未来へと受け継がれてゆくのである。