言葉の力、沈黙の重さ

退職たいしょくまであと一週間という朝、沙也加さやかは四十年つとめた編集部へんしゅうぶ片隅かたすみで、ほこりをかぶった原稿げんこうたばを一枚ずつめくっていた。

窓越まどごしに差し込む晩秋ばんしゅうの光が、ばんだ紙の上をすべっていく。彼女の生涯しょうがいは、結局けっきょくのところ言葉とともにあったといっても過言ではない.

記者きしゃとしての歳月を振り返ふりかえるとき、彼女の脳裏のうりには決まって三つの記事がかぶのだった。かれ、発表はっぴょうされたもの。書かれながら、やみほうむられたもの。そして、いまだ書きえられぬもの——。

一つ目は、若き日の告発こくはつ記事だった。ある大企業だいきぎょう隠蔽いんぺいあばいたその一連いちれんの報道は、世論せろんるがし、彼女に名声めいせいをもたらした。真実しんじつ白日はくじつのもとにさらすこと——それこそが記者の使命しめいだと、当時の彼女はしんじてうたがわなかった。

拍手はくしゅ賞賛しょうさんつつまれながら、しかし沙也加は、ある後悔こうかいいだえ続けていた。記事のために実名じつめいかした内部告発者ないぶこくはつしゃ青年せいねんが、その後しょくうしない、消息しょうそくったのである。言葉はつるぎであり、そのやいばときとして、まもるべき者をもきずつけるのだと思い知らされた.

二つ目の記事は、を見ることがなかった。ある政治家せいじか醜聞しゅうぶんつかんだ彼女は、証拠しょうこそろえ、渾身こんしんふでで書き上げた。だが掲載けいさい直前ちょくぜん上層部じょうそうぶ判断はんだんによって、その記事はにぎつぶされた。

沈黙ちんもくいられたあの夜のことを、沙也加はいまでも鮮明せんめいおぼえている。いかりと無力感むりょくかんさいなまれながら、彼女は一つの逆説ぎゃくせつさとった。かたられなかった言葉もまた、一つの雄弁ゆうべんにほかならない、と。かなかったという事実こそが, あの腐敗ふはいふかさを物語ものがたっていたのだから。

だますることは、かならずしも敗北はいぼくではない。とき沈黙ちんもくは、いかなる言葉ことばよりもおもく、そしてふかい——そのおもみを、彼女はこのとしになってようやく受け入れられるようになった.

そして三つ目。それは、まだ書きわっていない記事である。題材だいざいは、ほかでもない沙也加さやか自身の半生はんせい——言葉ことばけた一人の人間の、勝利しょうり挫折ざせつ記録きろくにほかならなかった。

つくえの上の白紙はくしを前に、彼女は万年筆まんねんひつにぎりしめる。書くべきことはやまほどあり、くせぬおもいがむね渦巻うずまいている。だが彼女は知っている. 真にかたるにあたいするものは、往々おうおうにして言葉ことば外側そとがわに、かれぬ余白よはくの中にこそ宿やどるのだということを。

まどの外で、一枚いちまい枯葉かれはおともなくちた。沙也加さやか万年筆まんねんひつふたしずかにはずし、最初さいしょ一行いちぎょうはじめる。四十年よんじゅうねんにわたる言葉ことばとの対話たいわは、わるのではない。ただ、形を変えて続いていくにすぎなかった.