科学と倫理の狭間で
研究室の窓に映る自分の顔を、紗英はもう何度も見つめていた。
彼女は遺伝子治療を専門とする生物学者であり、その領域において国内でも屈指の業績を誇っていた。だが今、その誇りは彼女を苦しめる刃と化していた。
一人娘の美月は、生まれつき難病を抱えていた。進行を止める術は今のところ存在しない。残された時間は、長く見積もっても数年だと告げられていた。
紗英が率いる研究チームは、まさにその病を根治しうる新しい手法の開発に挑んでいた。理論の上では、それは確かに娘を救いうるものだった。
問題は、その手法が人間の受精卵そのものに手を加える類のものであり、次世代へと不可逆に受け継がれる改変を伴う点にあった。倫理委員会の審査は厳格を極め、実用化までには幾年もの歳月を要するとされていた。
時間が、足りない。
科学者としての良心は、手続きを飛び越えることを断じて許さなかった。一つの例外を認めれば、科学はやがて歯止めを失う。人類の未来に及ぼす責任は、一人の母親の願いなど遥かに凌駕する重みを持っていた。
頭では、紗英にもそれが痛いほど分かっていた。彼女こそ、その歯止めの必要を誰よりも説いてきた当人にほかならない.
それでも、幼い寝顔を思い浮かべるたびに、理性は音を立てて崩れそうになった。救える力が自分の手の中にありながら、規範ゆえにそれを用いぬことを、はたして正しいと言い切れるのか。
ある晩、紗英は書斎にこもり、白紙の辞表を前に座っていた。組織を離れ、海外の規制の緩い地で研究を続ければ、娘に間に合うかもしれない。その誘惑は、甘い毒のように胸を蝕んでいった。
ペンを握る手が、小さく震えた。
そのとき、扉の隙間から美月が顔を覗かせた。母が何かに思い詰めていることを、幼いながらに察したのだろう。
「ママ、無理しないでね」と、娘は微笑んだ。「私のために、ママがママでなくなったら、嫌だもの」
その一言は、紗英の心の奥に深く突き刺さった。救おうとするあまり、娘が誇りに思う母の姿そのものを、自分は失おうとしていたのではなかったか。
紗英は辞表を静かに引き裂いた。抜け道を選ぶのではなく、正面から壁に挑むこと。たとえ間に合わなくとも、娘が生きた証を、後に続く無数の命のために残すこと。それこそが、母として果たすべき務めなのだと、彼女は悟った。
科学と倫理の狭間で、紗英が最後に掴んだのは、答えそのものではなかった。問い続ける覚悟、ただそれだけだった。
窓の外では、夜明けの光が、ゆっくりと空を白く染め始めていた。